俺の哲学

厨二病が哲学するブログです

イスラム教は女性の自由を抑圧しているのか?

※例として出てくるイスラム教に対する日本人の反応は、私個人の偏見です

 

 言葉の意味とは厄介なもので、時代によって生き物のように変化する。

 

 とりわけ自由、平等、博愛、差別などの言葉は、現代社会の根幹を成す言葉であるが、その定義づけは本当に難しい。

 

 まず、イスラム教は女性にヒジャーブなどの着用を義務づけている。ヒジャーブとは、女性の美しい素肌などを隠すためのものだ。

 

 我々日本人からすれば、「そんなの耐えられない」と思ってしまうだろうが、イスラム教圏に住む人たちは、生まれてからそれが当たり前ので、自由が抑圧されているとも思っていない。

 

 例えば、女性が乳首を普通に露出している民族がいたとしよう。その民族が我々日本人を見ると、「何で女性だけ乳首隠さないといけないの?」と思うだろう。

 

 日本人は、「だって男性の性的欲望を喚起してしまうじゃない」と言うだろうが、イスラム教にとっては、素肌がもう性的欲望を喚起してしまうのである。

 

黒執事」という漫画を見て知ったのだが、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、素足を見せることが、最も破廉恥な行為だとされているらしい。

 

 そう考えると、「自由」や「差別」などの言葉が恣意的で独善的なもののように思ってしまう。

 

 イスラム教では、女性は働かずに家にいるのが良いとされている。家事も育児もしない。それらは全て、夫が雇った乳母にやらせるのだ。

 

 女性の社会進出を是とする昨今の働き方改革と逆行する立場である。だいたいの人は働きたくないので、そちらの方が良いという人もいるかもしれない。

 

「自由」と言うと、言葉自体がなんか良い響きなので、肯定的な意味で使われる。

 

 しかし、そもそも自由ならば、人を殺すことも自由なのではないか?

 

 酸素の中で生きていかなければならない我々人間は不自由なのではないか?

 

「差別」はよくないと言うが、かけっこのタイムで順位をつけるのは差別ではないのか?

 

 容姿を褒めるのは差別ではないのか?

 

 ややこし過ぎるので、ツイッターでこれらの言葉を使われたら、その人がどのような文脈で言っているのか分からない。もう使わないで。

ベーシックインカム導入されても何も変わらない気がする

 日本教および常識教の戒律

 

1、賃労働によって、「自立」せよ

2、大学、就職、結婚こそが汝の希望である

3、働かない者には死を!

 

 私たちは上に書いたような戒律に縛られている。

 

 俯瞰しているつもりの筆者も、

 

「大学に行かなかったらまずいんじゃないか」

 

「労働した方がいいのかなぁ」

 

 と、心の奥底でこう思ってしまっている。

 

 生まれてから何十年も教育という名の洗脳を受けているので、このマインドが骨の髄まで染み込んでしまっているのだ。

 

 正直、マクロな経済とか全然よくわからないので、ベーシックインカムが実施された時の日本経済とかは分からない。

 

 でも、その時の私の心境と、人々の様子は想像できる気がする。

 

 まず、銀行に行って預金残高を見てみると、7万円が振り込まれている。

 

 この時点で、私は罪悪感を覚えるだろう。

 

「え?働いてないのにお金もらっていいの?」

 

 そして、ツイッターを見てみると

 

「この7万円は貯金しないと」

 

「政府に騙されて労働しないと、本当に日本終わる」

 

「これで好きなことして生きていかなくちゃ」

 

 おそらく、ネットは「~しなくちゃ」の声で埋め尽くされているのだろう。

 

 結局、新たな戒律が誕生する。

 

 このベーシックインカムという制度は、最近YouTubeでよく見る「好きなことをして、生きていこう!」という言葉と共に語られることが多い。

 

 この標語には、「好きなことで稼げるようにならなきゃ人間としてダメ」という戒律が裏に潜んでいる気がする。

 

 そして、好きなこと(必要ないけど、創造的で金が稼げる物、youtuberとか)で活躍できない奴は、非難を浴びるようになる。

 

 生まれてきたからには、飯食ってうんこ垂れ流しているだけじゃダメ。多分、この倫理観だけは変えられない。

 

 きっと、「好きなことで生きていかなくちゃ」に押し潰されて、自殺する人も出てくるだろう。

 

 どうしても私たちは、飯食ってうんこを垂れ流す人生を受け入れることができない。

 

 どうなっても、「生きがい」という幻想を求めてしまうのだ。

 

 商品化された食べ物の2分の1が廃棄される現代の日本社会においてすら、「食うために働く」と言う人がいるのだから、人(日本人)は「生きがい」を求めて働き続けるんじゃないだろうか?

 

 ベーシックインカム導入してみてほしい。

 

 

日本人の宗教から、自殺問題を考える

 我々日本人は、一般的に無宗教無神論の民族だという風に言われる。

 

 しかし、本当にそうなのだろうか?

 

 確かに、日本人はクリスマスを祝えば初詣にも行くし、葬式にはお坊さんが来る。

 

 そして、日本人はそれらの宗教がどんな教えであるかを知らない。

 

「周りの皆がやっているから」

 

「クリぼっち嫌だ」

 

「お雑煮ウマい」

 

 などの理由で、慣習的にやっているだけであろう。

 

 友達と神様の話はしないし、そんなこと話たらヤバい奴だと思われる。

 そういう風潮は、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件が尾を引いているとも言えるだろう。

 

 宗教なんて、日本人である私には関係のない話だと思っているかもしれない。

 

 しかし、私はここで、ほとんどの宗教に見られる特徴から、日本人の信仰心を暴いてみたいと思う。

 

 ユダヤ教キリスト教イスラム教には、神が存在する。

 

 今生は神に仕えるためにあるのであり、人々は聖典に書かれた律法を遵守して生きる。

 

 バラモン教の系譜を引く仏教では創造神の概念はないが、輪廻転生からの解脱を会得するための戒律が存在する。

 

 儒教では、孝徳が重んじられ、親と子の秩序を乱してはいけないと教えられる。

 

 そして、教義に反する者は異端とされ、同教の者から迫害、抹殺されるのだ。

 

 ここでは、日本独特の宗教を「日本教」と呼ぶことにしよう。

 

 日本教の教義はこうだ。

 

「良い大学に行き、良い会社に入り、結婚して、家族を持って、マイホームを買い、老後は悠々自適に過ごして家族に看取られながら病死すべし」

 

「働かざる者、食うべからず」

 

 レールから少しでも外れた者は嘲笑われ、落伍者として、陰鬱な人生を歩む。

 

 働かない者は異端の烙印を押され、厳しい批判の嵐に晒される。

 

 創始者のいない、見えない「空気」に隷属することが、日本教の特徴だとも言えるだろう。

 

 この特徴は先程例として上げた宗教と合致する。

 

 つまり、私たちは立派な「日本教の信者」なのである。

 

「だから何だ」と言われるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。

 

 日本教を信仰することによって、浮かび上がってくる不都合な事実があるのだ。

 

 それは、この日本教の教義から外れることによって、年間2万人ほどの自殺者が発生しているということである。

 

 学校なんか行かなくていいのに、虐められたから自殺する。

 

 辞めればいいのに、ブラック企業で過労死する

 

 彼ら彼女らは、日本教の教義から逸脱した結果、自ら死を選んだ。

 

 死んだところで、日本教には来世がない。

 

 ただメディアなどで

 

「若い命が、惜しくも失われてしまいました」

 

 など、レールに乗っかって長生きすることを良しとする価値観のもと、哀れみの言葉が告げられるだけである。

 

 自殺者2万人という数は、あの地下鉄サリン事件で失われた命よりもはるかに多い。

 

 無論、ここで強調したいのは、命の数ではない。

 私たちが気づかずに信仰しているもののせいで、ひっそりと人命が失われてしまっているという厳然とした事実だ。

 

 この理不尽な教義は、日本という国と一体化してしまっている。

 ゆえに、教義に沿えない者は逃げ場がなく、やがて死ぬことでしか救われなくなる。

 

 もちろんこれを、システムとして許容の範囲内だと見ることもできるだろう。

 

 しかし、このシステムに対しては、筆者は否定的である。

 この日本教を信じたところで、日本が没落しているという言説は止まないし、幸せになれるとも思えない。

 

 この社会問題に対する解決策は、筆者の中では兆しがある。それは、イスラム教に改宗するというものだが、まだ自分の考えとして煮詰まっているわけではない。

 

 よってここでは、ささやかな解決策を提示しよう。

 

 この文章を読んでくれた読者が、教義からこぼれてしまった人に対して、優しさをかける。

 

 そして、働かなくていいんだよと言ってあげる。

 

 もしくは、私たちが見えない根拠のない思い込みに捕らわれているという認識を普段から持ちつつ、そこから脱しようともがいてみる。

 

 そうすることによって、読者が本当にやりたいことをやってくれれば、筆者にとっては望外の喜びである。

 

 

 

 

小児性愛障害について、古代ギリシャの性生活から解決策を考えてみる

 小児性愛障害。

 アベマTVでそういう人がいることを初めて知った。

 彼らは小さい子どもに性的欲求を抱いてしまうらしい。

 番組に出ていた性犯罪者の人は、子どもの「子」という字を見ただけで、性的衝動を抑えられなくなるらしい。

 なので、普段は「子」という字を見ると、すぐに目をそらすようにしているそうだ。

 番組ではこの「障害」について、様々な議論がされていたが、ほとんどが法律によってどう規制していくかという内容だった。

 社会にとって危ない人を、法律によって縛る。犯罪者などの異常者に対する議論は、「規制」によっては解決を図ろうとすることが多いが、私は一つ、ここで別の角度からの解決策を提案してみたい。

 それは、抑えられない欲求を「規制」するのではなくて、「放出」させるというものだ。

「何を言ってるんだ!」

 という声が聞こえてきそうだが、私は、欲求というものはなかなか抑えられない物だと思っている。

 そんなことができるのは、一部のおかしな人間だけだ。

 おそらく、欲求を抑えられる人は、「欲求を抑えたいという欲求」を満たすことによって、欲求を抑えられない人にマウントを取っているようなしょうもない人だと私は思っている。

 ……今のは私の勝手な憶測だが、ここで私が伝えたいのは、「その欲求をもう少しいい方向に使いましょう」ということだ。

 「子」という字を見ただけで、欲情する。そんな人が抑えようと思って欲望を抑えられるわけがない。

 この認識から議論を始めたほうがいいと思う。

 そして、この問題を考える上で、古代ギリシャの慣習を引用したいと思う。

 そもそも、古代ギリシャの時代、少年愛は「障害」とは見なされていなかった。

 それどころか、義務とされていたのだ。

 というのも、古代ギリシャのポリスでは、市民が兵役を担う。そこで、立派な兵士を養成するための教育が施されるわけだが、その内容は現代でいう「学校」とは程遠い。

 いわゆる、何十人かの子どもに対して一人の大人が一律の教育を施すのではない。

 成熟した年長者(エラステス)が未成熟な年少者(エロメノス)を教育するという、一対一形式のものだった。

 教育内容は多岐に渡り、兵としての教練にとどまらず、内面的な倫理教育にまで及んでいた。そして、肉体の教育にも………

 年長者は、これと見込んだ少年を見つけると、まずその父親から承諾を得なければならない。彼は金銭やオス鳥などを送り、交際が正式に始まる。(年少者にも相手を選ぶ権利がある)

 もちろん、親の承諾無しの姦通は犯罪と見なされていたらしいが、承諾さえあればオーケーだったらしい。

 逆に、大人同士の同性愛は今と違って侮蔑するべきものとして捉えられていたらしい。本当に価値観とは時代によって異なるものだ。(詳しくは「美少年美術史」を参照)

 そこで、だ。この「小児性愛障害」の問題は一つに還元されると思う。それは、子どもと性関係を結ぶ時、子どもに責任能力がないということだ。

 子どもとは、まだ適切な判断能力を有していない存在。自己の行動が及ぼす結果を、想像できないという点で、責任能力がないと言える。

 ゆえに、「小児性愛障害」の人が、善意で子どもに性教育を施した場合、その子どもは将来、決して拭いきれない傷を負うかもしれない。

「おじさんに任せておけば大丈夫だから」と、よくわからないままその言葉を信じてしまったり、あるいは大人から得もいえぬ威圧感を感じて、成すがままにされてしまった。そういう場合もありうるだろう。

 では、どうやって将来にかかるかもしれない負担を軽減しながら、責任能力のない少年と合意を形成していくか。それはやはり、その少年の親との相談無しには考えられない。

 そうなると、日本ではまず無理だろう。日本人の親に

「あなたの子どもを代わりに育てるので、性関係を結ばせて下さい!」

 と頼んでも、警察に通報されるだけだ。

 では、誰を狙うか。それはもう、他国の貧しい家庭の子供しかあるまい。あるいは、難民とか。

 人身売買と言われるかもしれない。しかし、日本の子どもを襲うよりも、世界中にいる貧しい子ども達を救って、その代わりに性関係を結ぶ方が、まだ「マシ」と言えるのではないだろうか。

 親とも連絡を密に取り、少年からも「いい人」と思われれば、少年の方から近寄ってくるかもしれない。

 まぁ結論として私が言いたいのは、欲求に対処する順番は、

 

1 何とか抑えようとしてみる

2 無理だったら、その欲求を、まだ「マシ」といえる形で発散する方法を考える

 

 という風に考えるのがいいと思う。

 別に、そういう系のエロ漫画を描いて発散するのでもいい。そこで重要なのは、常識を一回外して考えてみることだと思う。

 長々と書いてしまったが、ようは犯罪を犯す時も「マシ」な方法を考えてほしいということだ。なんか偉そうだけど

 

 

 

 

 

 

 

価値の本質に気づいたからプロ奢られヤーを擁護してみる。

 価値の本質とは何でしょうか?

 かなり曖昧な問いですが、私は一つの答えを導き出しました。

 それは、「評価」です。

 そもそも私が価値について考えるようになったのは、プロ奢られヤーさんの話を聞いた時からでした。

 彼は人から奢られることで生きている人です。

 日本人の感覚からしたら、「何の労働もしていないのに食べているとは何ごとか」と非難されそうですが、本当に彼は労働をしていないのでしょうか?

 彼は取材の中で、「江戸時代では肥料としてう○こに値段がついていた」と言いました。

 そして、「自分が持っているゴミを売ることができれば、手っ取り早く稼げるんじゃね?」と言っています。

 少々違うかもしれませんが、こんなことを言っていました。

 つまり、プロ奢さんは、「奢ってくれる人の話を聞く」という自分の中のゴミ(あまりストレスにならないもの)を支払っている代わりに、「食べ物」を相手から支払われているわけです。

 一見何の価値も生み出していないように見えますが、実は「話を聞く」ことが価値になっているのです。

 別に彼は、相手を脅して奢ってもらっているわけではありません。きちんと、対価を支払っているわけです。

 普段、私達はう○こを便所に垂れ流しているだけで、う○こには何の価値もないと思っています。

 しかし、江戸時代にはう○こに値段がついていました。う○こをするだけで金を稼げていたんです。

 つまり、私が言いたいのは、価値とは絶対的なものではないということ。様々な時代や環境において代わり得る、物への「評価」なのです。

 みなさんがイメージする価値の代表例としては、「貨幣」があると思います。

 一万円札自体の価値は、闇金ウシジマくんによると、28円だそうです。なのに、人々はその紙切れに一万円の価値があると信じ込んでいる。

 もっと言うと、「評価」している。それは、私達の身近な現象の中にあります。

 普段私達が物を売ったり買ったりできるのも、個人の「評価」にばらつきがあるから。

 コンビニで100円で売っているお菓子があるとしましょう。

 買う側としては、そのお菓子は100円出すだけの価値がある。100円を払えば、払った分以上の「美味しさ」という利益が見込めると「評価」している。

 一方で、売る側はお菓子を作るコストを勘案して、利益が出るように100円に設定しているわけです。

 実体としてのお菓子は、それ以上でもそれ以下でもない、ただのお菓子です。そこに価値はない。しかし、人間が「評価」をすることによって、「価値」が発生します。

 それが例えば、「秋しか食べられない限定商品」として売り出されると、実体は変わらなくとも、価値は変わります。

 それほどまでに、価値とは曖昧で、恣意的なものなのです。

 では、ここで話を労働へと敷衍してみましょう。

 労働とは、日本人にとっては、会社などで働くことなどを指します。

 時間を差し出して、商品などの「価値」を生み出す代わりに、お金という対価を得る行為。それが労働だとすると、プロ奢さんも労働をしているのではないでしょうか?

 なぜなら、価値を生み出さない労働は労働とは言えないからです。

 例えば、ある会社が旧モデルの車を売り出した。しかし、旧式なので買う人がいない。そのせいで、社員にお金が振り込まれない。

 この場合、製品を作った社員は労働をしたように見えますが、製品が売れなかった時点で、それは商品ではなくてゴミなんです。何の価値も生み出していない。

 つまり、この会社の社員は労働をしていないわけです。「価値」を生み出さない行為は労働とは呼べません。

 ということは、きちんと奢られているプロ奢さんは、実質働いているのではないでしょうか?

 もっと言うと、働けるのに生活保護を受けている人も、国にとっては生活保護費を払うだけの価値があると評価しているから、生かしているのではないでしょうか?

 ニートの人も親にとっては生かしておくだけの価値があるんです。生かしておくだけの価値がなくなれば、追い出されているはずですから。

 というわけで、「価値」なんて「評価」でしかないので、働いていないからといって、自分で自分のことを勝手に「グズ」だと「評価」するのはやめましょう。

 価値なんて、評価なんて、見方によってはどうとでも変わるものなんですから。